カメラと映画と日本が好き

平成27年6月にはてなダイアリーから引っ越し。岩手県在住の49歳会社員。某マスコミに近いところ勤務。家族:相方&息子 祖国の未来を憂い、特定アジアと国内の反日分子を叩くことに燃えつつ、のほほんと写真を撮ったり映画を観たりするのを趣味とする男の日々。平成26年に突如としてランニングをはじめ、現在ドハマり中

「それでもボクはやってない」

予告を観てからどうしても気になって仕方の無かった映画「それでもボクはやってない」をレイトショーで観てきた

それでもボクはやってない スタンダード・エディション [DVD]

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正直観ている間、非常にイライラさせられることの多い作品だ。無実を訴える主人公に対し、刑事、証人、検事、裁判官らがどんどん(彼らにとっては)既定の犯罪立証へと突き進んでいく。この映画を観ていると刑事裁判で大事なのは事実の検証ではなく、確実に行われた犯罪行為の最も疑わしき人物に刑罰を与えるための手続きであるかのように感じられる。現実の裁判もすべてこうだとは限るまいが、細部まで精緻に描写された法廷の一部始終は圧倒的なまでの現実感と説得力をもつ。これだけで2時間半もの長時間、スクリーンに釘付けになってしまった

この映画は痴漢冤罪を題材として取り扱ってはいるが、テーマは現在の司法制度そのものということになろう。本来はもう一歩進んで「司法制度の問題点」と言った方が適当なのかもしれないが、映画はあくまでも第三者的視点で逮捕から判決に至る裁判の全体像を描写することにほぼ終始している。劇中、ある程度司法のシステム的な問題点を登場人物に語らせはするが、主人公の無罪については映像ではっきり証明するような場面は無く、「容疑者」として描かれ続けている。途中から登場して主人公を支援する「冤罪被害者」についてもそれは同じで、明確に「無実の人」と観客に提示することはしない。すなわち、映画が取り扱う「司法の問題点」それ自体を問題とするかどうかは観客の感じ方次第というスタンスになっていることがうかがえる

しかしわしはと言うと、主人公が無実とする完全な確証が得られないにも関わらず、ずっと主人公側に肩入れして観てしまっていた。どうしても同性として「自分にも起こり得る」恐ろしさの方が先に立ってしまう

裁判シーンの中で、検察側が主人公の所持していたエロDVDを示してその性的嗜好を糾す場面があったが、あんなことをされたらわしなんか一発で犯罪者扱いだろう(ここ、笑いどころでっせ)。冷静に考えればああいうものをまったく観ない男なんてむしろ気持ち悪いとわしは思うし、あんなものが有罪無罪の判定材料になるわけはないと思うのだが、現実に低劣なテレビのワイドショーは毎日のように容疑者の所持品から無責任な犯罪心理の分析をしているし、それに同調する人が多いのも確かだ。わしはこの手の無意味な分析作業を以前から嫌悪しているので、この場面には少なからぬ怒りを感じてしまった(これに関連することは「マスコミの犯罪分析に物申す - カメラと映画と日本が好き」で言及している)

しかしこれだけ難しいテーマを扱いながら、被告側にも裁判所側にも検察側にも特段の思い入れを寄せず、淡々と描ききってしまっているのが凄い。創作者というものはとかく自分の描きたい人物をストーリー構築の過程の中である程度特定し、そこに感情を移入して物語を展開してしまいがちなように思うが、この作品にはそういうものがほとんど見受けられない。完全なニュートラルではないにしても、最後に主人公を救って大団円を迎えようなどという色気はまるで無かったように思える。主人公達が懸命に積み上げてきた「証拠」の数々が裁判官によって冷徹に否定されて終わるにも関わらず、「ハッピーエンドにしたかったが、これが現実だ」的な作為も不思議と感じられなかった

なんともやりきれない感情の残る映画ではあるが、救いがあるとすればラストの主人公の心中で語られる無実の主張だけだろう。(客観的に見れば)傍観者に過ぎなかった観客を神の位置に押し上げる(追いやる?)ことで、観客だけが初めて主人公を「無実の人」として受け入れることができる。現実を思い知らされた重みをあまり感じずに済むのはそのせいかもしれない