カメラと映画と日本が好き

平成27年6月にはてなダイアリーから引っ越し。岩手県在住の49歳会社員。某マスコミに近いところ勤務。家族:相方&息子 祖国の未来を憂い、特定アジアと国内の反日分子を叩くことに燃えつつ、のほほんと写真を撮ったり映画を観たりするのを趣味とする男の日々。平成26年に突如としてランニングをはじめ、現在ドハマり中

「ロッキー・バルボア」

公開初日のレイトショーで観てきた。感想の前に一言書いておきたいのは、この映画に「ザ・ファイナル」なる邦題は要らなかっただろ?ってこと。興行上の必要性から見ても最終作であることをわざわざ断る必要はなかっただろうし、何より「ロッキー・バルボア」というタイトルにこそ、スタローンの「ロッキー」への想いが凝縮されているように思われるからだ

以下ネタばれあり
偶然で再度リングに上がるチャンスを掴み、自己証明のために無謀とも思える戦いに身を投じる、という展開はまさにオリジナル「ロッキー」のそれ。前半は妻を失いボクシングの世界を離れたロッキーの思い出行脚と、共に歳を重ねた人々とロッキーとの関わりなどをそれなりに丁寧に描く。かつて場末のリングでロッキーと戦ったスパイダー・リコが、ロッキーの経営するイタリア料理店の入り浸って*1いたり、夜の酒場でロッキーに説教されていた不良少女がシングルマザーになって昔なじみの店に勤めていたりするあたりはロッキーファンならそれだけで涙ちょちょ切れもの

トレーニング場面からラストのボクシングシーンに至るまで、演出手法には随所に「ロッキー」という作品に対する「セルフ」オマージュが感じられる。劇中ロッキーが口にする「燃えるものが残っている」というニュアンスのセリフはまさにスタローン自身の「ロッキー」への想いそのものだったのだろう

問題はそのスタローンの想いがあふれ過ぎているあまり、テーマに関わる部分を言葉で語りすぎてしまっていること。見方によっては名セリフのオンパレードということになるのかもしれないが、アクションを期待してしまうとこれが非常に説教くさくて鼻につく。過去に縛られるロッキーに対するポーリーの言葉、ふがいない息子に向けたロッキーの人生訓、試合前日にマリーがロッキーを励ます言葉等々。すべて良い言葉だし、情感がこもっているのだが「何もそこまで言わなくても」という部分が多すぎる。人物描写が丁寧なだけに余計な印象が強く残ってしまう

さらに言うと前半がそれなりに丁寧だっただけに、試合までのトレーニングや試合シーンはいかにも拙速に映る。せっかくトレーナーのデュークを登場させたのだから、彼との再会や引退後の関わりなども描けばよかったのに、再びトレーナーに納まるまでの描写や説明は一切無し。例えば今でもデュークとは家族ぐるみの交流が続いていて、試合の話を聞きつけたデュークがロッキーからの連絡を待たずに駆けつけるとか、ちゃんと考えればもっとオイシイ演出がいくらでも出来たろうに、などとつい考えてしまう

試合の相手となるメイソン・ディクソンの描き方も中途半端。中盤に登場する以前のトレーナーとの会話シーンとか、興行を第一に考えるマネージャーとの確執など、なかなか雰囲気のある見せ場を作ったにも関わらず、それらの要素は消化不良のまま。唯一ラストで「本物のボクシングを教えてもらった」などと言って一応のケリは付けたものの、いかにも取って付けたという印象。試合前のロッキーに対する不遜な態度が敬意に変わったのは「拳を交えたもの同士だから分かり合えたのだ」という拳闘もののお約束と言えなくもないが、むしろディクソンのキャラクターが確立しきれなかったことの証拠に見える

単体の映画として観た時、いろいろと突っ込みどころの多い作品であることは確か。わしの評価も一般映画としてなら星3つがせいぜいだ。しかし「ロッキー」シリーズの最終作として考えれば十分。それはスタローン自身の手によるこの作品が、ロッキーとロッキーを愛するすべての人への愛と感謝に満ち溢れていたからだ。ロッキー・バルボアというキャラクターの生き様をもう一度描いてみせることでそれを表現したかった。これがスタローンの想いであり、この映画が製作された理由なのだとわしは理解した。だからこそこの映画のタイトルは「ロッキー・バルボア」でなければならないのだ

そしてだからこそこの映画はおそらく「ロッキー」を深く愛し、理解する人にしか届かないのだろう。だがそれでいいのだ。訳も無くそう思う

*1:ただ食いだけど