カメラと映画と日本が好き

平成27年6月にはてなダイアリーから引っ越し。岩手県在住の49歳会社員。某マスコミに近いところ勤務。家族:相方&息子 祖国の未来を憂い、特定アジアと国内の反日分子を叩くことに燃えつつ、のほほんと写真を撮ったり映画を観たりするのを趣味とする男の日々。平成26年に突如としてランニングをはじめ、現在ドハマり中

「博士の愛した数式」

まったくと言ってよいほど予備知識が無かったのだが、テレビの番宣の雰囲気が良かったので「博士の愛した数式」を観てみた

博士の愛した数式 [DVD]

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結論から言ってしまうとまったくダメ。とにかく気に入るところが何も無かった。この原因はなんだろうといろいろ考えたのだが、突き詰めていくと一貫性の無さゆえに作品に「浸れない」こと、ということになろうか

あらすじは面倒なのでウィキペディアを参照
博士の愛した数式 - Wikipedia

家政婦紹介組合から『私』が派遣された先は80分しか記憶が持たない元数学者「博士」の家だった。こよなく数学を愛し、他に全く興味を示さない博士に、「私」は少なからず困惑する。ある日、「私」に10歳の息子がいることを知った博士は、幼い子供が独りぼっちで母親の帰りを待っていることに居たたまれなくなり、次の日からは息子を連れてくるようにと言う。次の日やってきた「私」の息子を博士は「ルート」と呼び、その日から3人の日々は温かさに満ちたものに変わってゆく…。

このストーリーが映画では成長して数学教師になった家政婦の息子「ルート」の授業内容という形で語られる。こういう演出手法を用いた以上、当然子供だった「ルート」目線で語られなければならないはずなのだが、大人同士の事情の話になると急に家政婦のモノローグが入ったり、博士の義姉の視点も入ってきたりしてどうも落ち着きが無い。サイドストーリーに重要性を見出しているのならば、「ルート」をストーリーテラーに指名するのはまず初手から間違っている

80分しか記憶が持たない、ということはその80分間の記憶がゼロになる瞬間があるはずなのだが、そこはまったく描かない。最初に80分という時間の制約を明示しておきながら、これをまったく生かさないのは致命的。博士が同じことを何度も言う描写は監督にとってはどうでもよいことらしい。しかし記憶障害はこの物語の中で最も重要な設定。むしろ鬱陶しいくらいに描いて観客に設定を刷り込む必要があるはず。にもかかわらずそれをまったくしない。だから博士が登場するたびに実は記憶が蓄積されているのではないか?という疑念を抱いてしまう。観客が自明のはずの設定を疑ってしまうようでは、映画のストーリーに浸って楽しむことなどできるはずがない

子供の描き方も疑問。原作を読んでいないので、このあたりは原作者のせいか監督のせいかはわからないが妙に物分りの良い「ルート」にしても、「ルート」の授業を聞いて「先生ありがとう」なんて言ってしまう生徒(中学生?)にしても、何か「年寄りの理想とする子供」を無理矢理見せられている感がしてしまう。作者のこの辺の感覚にどうにもズレを感じる

カット割りも気になる。主に外の場面での長時間のロングショット。キレイな風景を見せたい気持ちはわからんでもないが、その割りに季節感が希薄で、その中の人物の動きにもあまり意味を与えていない。そのほかにも対面で会話する場面で90度横から二人の全身が見えるようにしてただダラダラと長回しで撮っていたり、場面が切り替わるときのワイプなど「素人のビデオ編集か」とツッコミたくなるところがチラホラ。劇中で博士が「数学の美しさ」を力説しているにも関わらず、それを描く映像の切り取り方は妙に安っぽく美しくない。映画的重厚さが欲しいのか、テレビ的な軽妙さが欲しいのか、撮影や編集にもまったく一貫性がない

俳優は悪くない。感情の抑揚を意識的に抑えたかのような寺尾聰深津絵里の演技はなかなか雰囲気がある。気になるのは浅丘ルリ子。どういう演技プランを持って臨んだかはわからないが、あんな女じゃ博士は惚れんじゃろ?本当にちゃんとストーリーを踏まえた上で演じていたのか?とつい疑いたくなる

エンドロールまで見て監督が小泉堯史だったことを知る。この人黒澤明の下で働いてた人だったんじゃなかったっけ?一体黒澤の下で何を学んだんだか、と呆れてしまった