カメラと映画と日本が好き

平成27年6月にはてなダイアリーから引っ越し。岩手県在住の49歳会社員。某マスコミに近いところ勤務。家族:相方&息子 祖国の未来を憂い、特定アジアと国内の反日分子を叩くことに燃えつつ、のほほんと写真を撮ったり映画を観たりするのを趣味とする男の日々。平成26年に突如としてランニングをはじめ、現在ドハマり中

「ALWAYS三丁目の夕日」

テレビでやっていたので観る

ALWAYS 三丁目の夕日 通常版 [DVD]

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ストーリーは省略。とくに何と言うこともない話なので

観ている間はそれなりに楽しめる。役者の演技は悪くないし、物語もベタベタながらさほど嫌味は無い。しかし、見終わった後わしがどうしても気になってしまったのは「この作品は一体何を描きたかったのか?」ということ。おそらく製作者の狙いは「昭和30年代初期の記憶」すなわちノスタルジーを呼び起こすこと、ということになると思われるのだが、その描き方がどうもいただけない。例えば、駄菓子屋の店内を描く際にも「そこ」を「それらしく」作れば良いというものではなかろう。人が駄菓子屋にノスタルジーを感じるのは、大してうまくもない菓子の味や他愛の無い玩具の数々に対してではないのか?五感の記憶を呼び起こすことなく、ただエピソードの羅列だけで語られる過去の日本は、どこか空々しく、あくまで画面の向こう側の出来事という感しかない。それはもはや昭和の「記憶」ではなく「記録」でしかない

また、コミュニティー内における人々の濃密な関わりは、現代との対比という意味でこの映画の肝になりうると思うのだが、そこが表面的にしか描かれていない。元踊り子の水商売女なんて、普通近所中の噂の的だろうに、そうした人間のイヤな面は覆い隠すかあるいは無視してしまう。こういう妙な「優しさ」にも空々しさが透けて見えるのだ

こういう手法になってしまったのは、想像するに製作者自身がこの時代の当事者ではないことに起因するのではないか?皮膚感覚としての「記憶」の欠如が、モロに形となって現れてしまった、ということではないかと思われてならない

物語の展開がすべて登場人物のセリフで説明されてしまうのもいただけない。とにかく発する言葉のひとつひとつが説明的すぎる。この辺、演出者がよほど自信が無いのか、あるいは基本的に観客をバカにしているのか。「そこまで語らせなくてもわかるわ!」とツッこむことしきり。とくに許せなかったのが、ブンガクが淳之介を追って家を飛び出すシーン。勢いあまって転んだブンガクが泣きながら顔を上げると「・・・淳之介」って、オイ!そこで言っちゃうのかよ!スッと黙ってカメラがイマジナリーラインを踏み越えて、立ち尽くす淳之介を映し出せば良いじゃねえかよ!そこでバラすなよ!!と思わずダメ出ししてしまった

昭和30年代初めの東京の町並みを再現するためにCG合成をバリバリ使った結果、少々違和感のある仕上がりになってしまったのはご愛嬌としても、あまりにいただけなかったのは鈴木オート社長(堤真一)が従業員六子(堀北真希)の言葉に怒りをぶつけるシーン。なんで「開き戸をぶち破る」だけの場面にあんな大げさなCG合成を使ってしまったのか。映画には「無駄の楽しみ」はあるにしても、ああも唐突だと違和感しか残らない

気に入った場面もある。それは鈴木家に電気冷蔵庫がやってきたシーン。正確に言うとそのエピソードのラストになるのだが、捨てられた氷で冷やす冷蔵庫を寂しそうに見つめ、去っていく氷屋(ピエール瀧)のカット。時代の光と影のうち、ほぼ全編「光」しか描かない作品の中にあって、ほとんど唯一「影」の部分を描き出したこのカットはなかなか良かった。ただこのカットの効果が監督の狙いなのかピエール瀧の演技のおかげなのかは不明

つまらなくはない。が、心の底から楽しめるわけでもない。「絵空事」「他人事」「絵物語」と思えば許せるのだろうけど、これを素直に「ノスタルジー」などと言われると軽い反発をおぼえてしまうんだよなぁ