カメラと映画と日本が好き

平成27年6月にはてなダイアリーから引っ越し。岩手県在住の49歳会社員。某マスコミに近いところ勤務。家族:相方&息子 祖国の未来を憂い、特定アジアと国内の反日分子を叩くことに燃えつつ、のほほんと写真を撮ったり映画を観たりするのを趣味とする男の日々。平成26年に突如としてランニングをはじめ、現在ドハマり中

劒岳 点の記

実家に息子を預けて映画を観に行くことに。わしは「真夏のオリオン」も観たかったのだが、相方希望の「劒岳 点の記」を観てきた。映画館はかなり年齢層高めの観客でいっぱい。公開直後とはいえ、この手の地味な映画にこれほどの観客が集まるとはちょっと驚き

新版 劒岳〈点の記 〉

新版 劒岳〈点の記 〉

公開中なので以下伏せる

明治末、唯一残されていた地形図の空白地帯、立山から剣岳付近の作成のため、測量師の柴崎は未踏峰とされる剣岳山頂に三角点を設置するよう陸軍に命じられる。案内人の宇治長次郎とともに剣岳に挑む柴崎らの前には、立山を信仰する地元住民の反発、初登頂を目指す日本山岳会などさまざまな困難が待ち受けていた、、、といったストーリー

目指したものが嘘偽りの無い「本物」の映像であって、そこからしか生まれ得ないリアリティであることはよくわかった。映画を観ている間も「よくこんな画を撮ったな」「これどうやって撮ったんだ?」と見入ってしまうことしきり。ただ、そこにこだわり過ぎるあまり、どこか「見せられている」感覚が常にまとわりついてしまい、どうにも居心地が悪い。「どうだ!」言わんばかりの力こぶをあまりに誇示しすぎると観る側は少々疲れてしまう

物語のクライマックスを一番わかりやすく見せてくれたであろう頂上を踏みしめる場面を省略したことが、登頂自体が柴崎たちの目的ではないことを示す確信犯的演出であることは理解できる。しかしともすれば退屈に思える主人公達の忍耐の日々に、最後まで付き合ってくれた観客に対するサービスがあってもよいのではないか?と思わずにはいられなかった。それは彼らの遺した業績とそこに宿る崇高な精神だけで十分とした故かもしれないが、それにしても素っ気無い

物語を劇的にする要素はいくらでもあった。立山信仰の篤い芦峅寺(あしくらじ)集落の人々との軋轢でもよいし、長次郎親子のサイドストーリーでも、登攀の困難さから三等三角点の設置を断念する際の葛藤でもよい。そういう「おいしい要素」をスルーしてしまったことがどうにも惜しい

ついでなのでもう一つ演出上の欠点についてツッコんでおくと、モノローグが多すぎ。「心の声」が主人公だけのものなら良いのだが、あまりに多くの人に語らせるので、一瞬誰の言葉なのかわからなくなる場面がある。日本人にだけ見せるのならあれでもなんとかなるが、出演俳優についてよく知らない外国人が見たら混乱するのではないだろうか?

登山を描く映画でどうしても気になる寒さや痛み、疲労、飢えといった表現はあまりない。雪崩にあっても滑落してもほとんどかすり傷程度で凍傷すら負わないのは、史実あるいは原作どおりだとしてもどこか物足りない。過剰な演出は必要ないかもしれないが、死と隣り合わせの恐怖を皮膚感覚で味わわせるような表現が欲しかった気がする

とは言え、細かいことを言いだせばキリがないし、映画が志向したもの自体が「万人受けするエンターテインメント」ではないのだから、これ以上書いても仕方ない。立山の雄大な景観とそれを映像として切り取るスタッフの労苦を思えば、小さなことかもしれない

一緒に観た相方の感想は「良い映画かもしれないが、おもしろくはない」というもの。似たような感想を抱く人は多いだろう。しかしそれでも楽しみ方はある。映画に描かれる先人の途方も無い努力とともに、「本物の映像」に懸けた映画屋の執念を感じること。これがこの映画の楽しみ方ではないだろうか
ポチッとな