カメラと映画と日本が好き

平成27年6月にはてなダイアリーから引っ越し。岩手県在住の47歳会社員。某マスコミに近いところ勤務。家族:相方&息子 祖国の未来を憂い、特定アジアと国内の反日分子を叩くことに燃えつつ、のほほんと写真を撮ったり映画を観たりするのを趣味とする男の日々。平成26年に突如としてランニングをはじめ、現在ドハマり中

「焚城の計」って知ってるかい?

揚げ足取りをされてしまったついでに、はてな内のあちこちを覗いてきたのだが、意外と真っ赤っ赤なカタガタが多いので驚いた。何と言うかその一生懸命さ加減には哀れを感じてしまいますな

「南京〜」があったかなかったか?とか死者が何人だったか?なんて論議はする必要がないんですわ。現在の中共が主張する犠牲者数、虐殺の方法、「南京大虐殺」そのもの、これすべて支那の伝統文化なんですわ。犠牲者数の話は前述したとおり(http://d.hatena.ne.jp/ston/20041001#p1)。ついでなので支那の虐殺と「焚城」の伝統について書いておこう

まず具体的な事例

1938年1月、湖南省・長沙。警備司令官から事前に日本軍による長沙陥落時には城内を焼き払うよう指令があり、国民党軍兵士が各所で放火、掠奪を行った。三昼夜にわたる延焼で城は廃墟と化し、二十万人余の死者が出た。後日視察に訪れた蒋介石は市民の抗議を受け、警備司令官、警備団長、省警察局長を銃殺した。しかしこの作戦は蒋介石自身の命令によるもので、日本軍の長沙攻略を予想して伝統的攻城作戦の「焚城」を計画したものだった

支那軍による「焚城」は、支那事変全体でも何度か使われた戦術で、南昌、武漢などで実行され、杭州では指令が下りたものの幸い実行されなかった

この作戦の目的は、攻城軍が占領後に利用できるものを事前にすべて焼き払ってしまうことにある。そして敗走する支那の軍隊が「焚城」と同時に行うのが虐殺と略奪だ。六朝時代・東晋の王敦が首都建業(南京)で行った大虐殺、梁の侯景の乱などを見るまでもなく、王朝の交代期にはほとんど決まって首都での略奪・虐殺・放火・敗走・陥落がセットになっている。このことは正史からも明らかだが、近代でも曾国茎の天京(南京)大虐殺(1864年)、張勲による南京事件(1913年)など枚挙に暇がない

んで、この場合の「正史」というのは必ず次の王朝が記述するもので、前王朝が倒れる際に首都の敗残兵が行った残虐行為を記述するのは、前王朝の不当性と現王朝の正当性を同時に主張する効果を持つ。日本敗戦時に支那国民党が「虐殺」を持ち出し、国民党敗走後は共産党がこれを強化、誇大化しているのは、この伝統を日本軍に当てはめたまでの話だ

支那共産党が主張し、出自の怪しい「証言者」がたびたび口述し、反日ジャーナリストが記述する日本軍の「残虐行為」の数々がいかに支那の伝統に則ったものか、酷似しているか。そしてそれがいかに日本人の精神構造、倫理、伝統と異なるものか。この点に注目されたい