カメラと映画と日本が好き

平成27年6月にはてなダイアリーから引っ越し。岩手県在住の49歳会社員。某マスコミに近いところ勤務。家族:相方&息子 祖国の未来を憂い、特定アジアと国内の反日分子を叩くことに燃えつつ、のほほんと写真を撮ったり映画を観たりするのを趣味とする男の日々。平成26年に突如としてランニングをはじめ、現在ドハマり中

「世界の中心で、愛をさけぶ」

たぶん解説は必要ないであろうと思われる去年の大ヒット作品。最初に断ってしまうと、個人的なハイライトは長澤まさみの水着姿(笑)

世界の中心で、愛をさけぶ スタンダード・エディション [DVD]

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正直全編ムカムカする内容。登場人物たちは表面的にはさわやかで嫌味なく見えるが、どうにも性格付けが薄っぺらで誰一人感情移入できない。主人公の朔太郎が、学校で人気の美少女・亜紀に惚れられて始まる恋物語なのだが、そもそもなぜに惚れられたのかさっぱりわからない。キャラクターそれぞれの魅力が記号的過ぎて、今ひとつ伝わってこない

ストーリーは泣かせる展開に満ち満ちて、音楽も過剰なまでにそれを盛り上げるのだが、演出が過度になればなるほど天の邪鬼なわしとしては鼻クソでもホジりたくなってしまう。朔太郎が亜紀をオーストラリアに連れて行ってやろうとするのは別に構わないが、無菌室にいる患者をなぜあんなに簡単に連れ出せるのか?病院側の管理はどうなってるんだ?とか余計なことにも腹が立つ。あんな勝手なことをする患者がいたら医者や家族だって困ってしまうだろう。それでいて空港で亜紀が倒れたら「助けてください!」では自分勝手すぎないか?まあ、あの叫びは誰かに向かって言ったのではないというご意見もあろう。しかし物語を盛り上げるために挿入されたこの部分、わしとしては「10代の暴走だから」「どうせ死ぬのだから」と言って許されるものでもないと思う

だいたいこのストーリーは白血病に対する認識が甘すぎではなかろうか?原作者が亜紀の死因として白血病を選択したのも、安直に「薄幸の美少女」のイメージを作りたかっただけのような気がしてならない。亜紀の頭髪が抜けたのはおそらくインターフェロンによる治療の副作用だと思われるが、これは白血病を表現するための記号的な演出の典型例。映画では闘病の苦しみがこれくらいしか表現されないが、実際には嘔吐や食欲減退、頭痛、腹痛、発疹など激しい副作用に見舞われるそうだ。それを見せろとは言わないが、美少女が「美しく散る」姿だけを利用する魂胆がどうにも実際の患者や治療に携わる人に対して失礼な気がしてならない

山崎努が演じた写真館のジジイも好かん。確かテレビドラマをちらちら見ていたときは主人公の祖父だったような記憶があるのだが、映画では他人の設定。このジジイ、自分の過去を語って聞かせる交換条件に、なんと主人公たちに初恋の女の墓暴きをさせる。何?この青臭さ。それは「一途な愛」ではなくて「ストーカー的しつこさ」だろう?ジジイは主人公に「残されたものにできるのは後始末だけ」なんてしたり顔で語ってみせるが、自分で心の後始末ができない男に言われたかねえよ

朔太郎に亜紀のカセットテープを届けていた少女が現在の朔太郎の恋人・律子なのだが、そのことを互いに知らなかったという設定は強引過ぎる。あまりに偶然が多すぎて、どこまでが偶然なのか必然なのか、その線引きが困難。整理してみると、律子が亜紀の最後のテープを発見>律子、松山へ向かう>朔太郎、松山にいる律子をテレビで発見>朔太郎も松山へ>朔太郎、しばし律子のことは忘れて亜紀の思い出行脚>律子、亜紀を思い出している朔太郎を発見>律子、一人で帰路へ>朔太郎、律子を追って空港へ、、、整理してもよくわからん(笑)律子が松山(高松だっけ?)へ向かったのは届けられなかった最後のテープを下駄箱に入れるためだと思われるが、その理由がまずわからない。これも「もっと落ち着いてから行け」とツッこみたくなる

現在の恋人を放ったまま、昔の彼女の思い出行脚を続ける朔太郎にも閉口。友人からの電話で「なんであんな大事なことを忘れてしまうんだろう」とか言いながら、今の恋人のことは忘れてるわ、しまいにゃ「あのときからずっと忘れられなかった」とか言ってしまうわ。「一日たっぷり彼女を思い出して贖罪意識も無くなったから、じゃあオーストラリアに行って散骨しようね」って、オイ!そんなもんかよ!結局自己満足だったのか?「世界の中心」は自分か?

余計なカットが多い編集や変てこなカメラワークは完全にペケ。ウォークマンの再生ボタンを押すたびにカットを変えてウォークマンを大写しにするな!とか、走っている人物をフォローするときにカメラ揺らすな!とか画面に向かってついついダメ出しをしてしまう。わしが監督ならこんなもの絶対にオーケー出さねえぞ、などと思ってしまった

だめだ!わしはこの映画では絶対に泣けない。感心したのは坊主頭になった長澤まさみの勇気だけ。個人的に「恋に恋する」話が大嫌いというのもあるが、やはり恋物語のシークエンスに「浸れる要素」が少なすぎる気がする。尺だけはやたらと長いのに、主人公たちの人物像をじっくりと描く場面がほとんどと言ってよいほど無いためか、まるでキャラクターに魅力が感じられないこと。最初に書いたことの繰り返しになるが、これが一番の要因だろう

これに「泣ける」という人は、テレビアニメ「フランダースの犬」の最終話だけを見て「泣ける」という人に似ている気がする。要するに悲しいシチュエーションを提供すれば、それだけで涙腺を緩ませることのできるタイプの人。登場人物に自分を重ねる心理的作業やそこに至るまでの経緯の積み立てをまったく必要としない人だと思われる。わしはそれではダメだ。共感できなければ絶対に泣けない。うれしさや楽しさで泣くことはあっても、悲しさだけでは泣けない。ちなみにわしは「フランダースの犬」のストーリーを全部知っているが、あの最終話を見てもまったく泣けないどころか腹立たしさだけを抱えてしまうタイプの人間である